30日夜8時放送の「消えた天才」が放送されます。今回の特集には、今から約35年前の全国高校サッカー選手権決勝で途中出場ながら6万人の大観衆を熱狂させた天才プレーヤーが出演します。
その名前は「羽中田昌」さん。あまり聞いたことがない名前でしょうか?
それもそのはず、全国高校サッカー選手権決勝以降、彼は1試合も出場することなく、サッカーの表舞台から身を引くことになるからです。
一体彼の身に何があったのでしょうか?彼の病状やまつわるストーリーなどを載せましたのでご覧ください。
消えた天才の放送予定動画
まず30日放送予定の「消えた天才」の映像をYouTubeをご覧になっていただきましょう。
出演予定は福原愛さんと、もう一人の顔隠しされているが「羽中田昌」さんです。
あの辛口のセルジオ越後も絶賛しているコメントから本当に将来を嘱望された人物であったことが分かります。
羽中田昌のプロフィールとは??
ストーリーに入る前に羽中田昌のさんのプロフィールをまとめました。
活躍したのは約35年ほど前。
当時の日本サッカー界はJリーグが発足する大分前で、まだまだワールドカップに参加するのは「夢の夢」レベル。
当時の注目度ナンバーワンのサッカーの試合が全国高校サッカー選手権といっても過言ではない時期です。
だからこそ、高校サッカーレベルの試合の解説にセルジオ越後が出演していたほど。当時の状況が伺いしれると思います。
【名前】 羽中田 昌 (はちゅだ まさし)
【生年月日】 1964年7月19日 【年齢】 54歳 (2019年6月現在) 【出身地】 山梨県甲府市(中田英寿と一緒の「韮崎高校」出身) |
悲劇のサッカー人生
幼少期
天才といわれた彼はどういったサッカー人生を歩んだのでしょう。彼はすばらしいサッカーセンスに恵まれながら、先天的な病気に悩まされ続けたのでした。
羽中田昌さんがサッカーを始めたのは、小学3年生の時。小学校時代は5・6年と2年連続で優秀選手に選ばれ全国的で名の知れた選手になります。
試合に出れば、大量得点するのが当たり前の選手だったとのこと。
それから鍛錬を続け高校は山梨県の名門「山梨県立韮崎高等学校」に進学。そこから彼の知名度がさらに広まるのですが、それに相反して彼の身体は病魔にむしばまれていくのです。
韮崎高校入学後は、後に日本ユース代表となるフォワード・保坂孝と共に、1年時に全国3位、2年時に全国2位となるチームの中核を担うのだが、この間、万全な状態でプレーできたことは一度もなかった。
1年のインターハイでは貧血を患い、高校選手権では、直前の練習試合で足首を負傷し、痛み止めの注射をうちながらプレーした(大会後の検査で骨折していたことがわかる)。2年のときは、高校選手権の県予選突破後の練習で、右足の付け根に痛みを感じて病院に行くと、股関節の剥離骨折だと診断される。本大会では、再び痛み止めの注射をうってプレーしていた。 引用元:blogs.yahoo.co.jp |
大病が彼を襲う。急性腎炎
高校サッカー界を嘱望されていた羽中田さんにまた悲劇が襲います。ある日、顔色の悪い練習姿をみた当時の横森巧監督から声をかけられ精密検査を受けたところ、「急性腎炎」と診断されます。風邪のウィルスが腎臓に入ったということで即入院となり、そのまま3ヵ月間入院することになったのです。当時一番脂がのっていた時代。この時期の3ヶ月とは大きいものだったと思います。
チームも全国大会の優勝を目指せる位置にいたでしょうから、さぞチームの士気は落ちだんだと思われますね。
その後練習に復帰しましたが、羽中田さんは主治医に、「1試合15分以内のプレーに限定」という条件でサッカーを続けることになったのです。
高校三年生の全国高校サッカー選手権大会
そして、羽中田さんが三年生の全国高校サッカー選手権。チームは決勝まで勝ち上がり、当時最強といわれた静岡県代表清水東高校と対戦します。韮崎高校は3対0と大きくリードされ後半を迎えます。
残り25分。監督も「ちょっと早いけど出場できるか?」と羽中田さんに声をかけます。羽中田が交代のためにサイドラインに立った瞬間、満員の国立競技場が爆発したのでした。
最終的には試合は4対1と負けましたが、いかに羽中田さんが全国から期待されていたのかの裏返しのエピソードとなっています。
当時解説をしていたセルジオ越後もこのように語っています。
「何人ものユース代表がプレーするピッチの中で、最も目を奪われたのは羽中田。病み上がりでもこれだけすごいんだから、完治したらどれだけのプレーを見せてくれるのか。わくわくしたよ」
バイク事故により下半身不随に
将来を大きく嘱望されながら高校三年間を一度も全力でプレーできなかった羽中田さんにさらに悲劇が襲います。浪人中にバイク事故で大けがを負い、結果下半身不随となってしまったのです。さすがにサッカーのプレーはもうできません。
選手権から8ヵ月後の夏。友人宅から自宅に向かってスクーターを走らせていた。中央本線の跨線橋で下り坂にさしかかった瞬間、「バンッ」と大きな音をたてて前輪がパンクする。羽中田は、空中に投げ出され、激しく叩き付けられた。何が起こったのかわからなかった。
朦朧としていた意識が徐々に戻り、起き上がろうとする。ところが、両脚がまったく動かないのだ。 羽中田は、身体が動かない恐怖に震えながら叫んだ。 「なんでオレばっかりこんなことになるんだ! なんでオレばっかり!」 救急搬送された病院での診断は、脊髄損傷による下半身不随。黄金の脚は二度と蘇ることはなかった。 |
サッカーの指導者を諦めきれずバルセロナへ
下半身不随となってから、彼は公務員として社会人生活を送っていました。
しかし1993年のJリーグ開幕でかつて高校サッカーで戦った選手たちが脚光を浴びるのに触発され、サッカー指導者への道を志しバルセロナに渡るのでした。
2000年に帰国後は主にテレビのサッカー中継やスポーツ誌などで解説者として活動。BS朝日『SOCCER2002』の司会を務め、スカイパーフェクTV!のサッカー中継番組で主に海外サッカーの解説を担当する傍ら、暁星高校サッカー部のコーチとして指導に当たっています(2006年9月、日本サッカー協会・S級ライセンスを取得)。
「韮崎高校」は中田英寿の母校
羽中田さんが卒業した韮崎高校は、日本サッカー界のレジェンド「中田英寿」の出身高校でも有名です。当時、中田が高校内でどのような存在だったのか?どのような苦悩があったのか?懐かしい映像で特集されている映像がありましたのでこちらに掲載しておきます。
中田は不愛想であまりニコニコしない印象がありますが、高校生当時はしっかりとメディアに応対するしマイルドなイメージを持ちました。しかしながら、内に秘める闘志や軸はしっかり感じられます。これは若い時から世界をみて周囲の環境に流されないような視点があったのでしょうね。
その後の中田の活躍ぶりは誰もが知るところです。
中村俊輔にも敵わないライバルがいた!
サッカーのもう一人のレジェンドといえば中村俊輔。その中村俊輔にも幼少期から高校時代まで全く歯が立たなかったライバルがいました。その相手の名前は「冨田学(とみたまなぶ)」。
中学生まで横浜マリノスユースで共にプレーしていた仲間でしたが、実力は冨田の方が圧倒的に上。高校になってもチームの中心としてエリート街道を進む冨田に対して、中村俊輔は横浜マリノスユースに進めずやむなく桐光学園に道を変更。
しかしその後、冨田は東京大学を目指すため高校サッカーを半年間休部することになりました。非常に重要な時期の半年間。その間に中村俊輔は冨田を追い越し、その後の彼の成功ストーリーは誰もが知るところです。
まとめ
以上の映像をみていると、今最前線で光輝くスポーツ選手たちも多くの不遇の時代をたどってきた人達ばかりなんだな、と感じさせられます。ここで大事なのは、努力や好きなことをやり続けるってこと。本当に大切なんだなと実感しますね。
これからも久保選手らを始め若くて将来を嘱望される選手が次々と出場してくるでしょう。そんな中でも彼らの側面や背景を知ったり、裏には涙ぐましい努力があるってこと意識して応援していきたいですね。
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